大友柳太朗, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=307502 / CC BY SA 3.0

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大友柳太朗

大 柳太朗(おおとも りゅうたろう、1912年〈明治45年〉6月5日 – 1985年〈昭和60年〉9月27日)は、山口県出身の俳優。本名は中富 正三。

新国劇出身。戦後の東映時代劇映画で数多く主演を務めた剣豪スター。晩年はテレビの現代劇でも活躍した。

父親は山口県柱島(現岩国市)出身、母親は広島県能美島(現江田島市)の出身で、大は母親の実家に近い広島市中の棚(現在の同市中区立町付近)で生まれ、父親は出生届を柱島で出した。生後間もなく柱島で育ち、小学校3年から5年までは山口県屋代島(周防大島)(現同県大島郡)で育った。1935年(昭和10年)、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、大阪へ出て新国劇に入り、辰巳柳太郎に師事。同じ松山中学出身の映画監督伊藤大輔から「大輔」の名を譲り受け、中富大輔の芸名で初舞台を踏む。

1936年(昭和11年)、新興キネマ京都撮影所に招かれ、山本周五郎原作の『青空浪士』の主演で華々しく映画界にデビュー。このとき、師の辰巳柳太郎から「柳太郎」の名を譲り受け芸名を「大柳太郎」とした。

1937年(昭和12年)、『佐賀怪猫伝』に主演、映画は大ヒットとなり、一躍スター俳優の仲間入りを果たす。1942年(昭和17年)、各社合併で大映京都撮影所所属となり、大映創立第1回オールスター超大作『維新の曲』に坂本龍馬の暗殺者である佐々木只三郎役で出演する。

1943年(昭和18年)、太平洋戦争に伴い召集を受け、満州方面を転戦する。1946年(昭和21年)、敗戦に伴い復員するが、GHQが発布した「剣戟映画禁止令」により、活躍の場を奪われ、すぐには時代劇映画スターに返り咲くことができなかった。この時期、嵐寛寿郎や片岡千恵蔵ら大御所も、同様に時代劇での仕事の場を奪われ、現代劇に活路を求める状況であった。

1947年(昭和22年)、チャンバラ場面のない『天下の御意見番を意見する男』の主演で戦後映画界に復帰するも、同年と翌年を含めた出演作は年4本に留まり、合間を地方巡業での芝居小屋出演などで生計を立てる不遇な時期が続いた。

1950年(昭和25年)、GHQの禁止令解除に伴い、剣戟映画の世界へ戻る。同時に大柳太郎の「郎」を「朗」に変え “大柳太朗” に改名。その背景として、戦後なかなか主役の座に返り咲けず低迷し、これでは師匠の名を名乗るのはおこがましいと考えたからという。同年、片岡千恵蔵主演作の『にっぽんGメン』や『いれずみ判官』に出演。この時期からしばらくのあいだ東横映画での助演を多くこなした。

1953年(昭和28年)、東映京都撮影所製作、山田五十鈴共演の『加賀騒動』(佐伯清監督)は、当時新聞連載の人気小説を原作としたこともあり、その重厚な作風とも相まって大の演技にも注目が集まった。同年、主演した『快傑黒頭巾』が大ヒット。黒頭巾役者として子供たちの人気の的となり1954年(昭和29年)からの『新諸国物語 笛吹童子』シリーズでは霧の小次郎役でさらに人気を博した。

以後もヒット作に恵まれ、戦後の時代劇映画観客動員でトップを走る「東映時代劇スター」の一角を担うまでになる。剣戟俳優として最も重要な「殺陣」の鮮やかさは誰もが認めるところで、また乗馬技術があり、当時、「片岡千恵蔵・市川右太衛門の両御大、中村錦之助・東千代之介・大川橋蔵の三羽烏よりも稼ぎ頭だ」と囁かれたほどの人気ぶりだった。

1957年(昭和32年)、4月に日本で初となる「シネマスコープ作品」として公開された『鳳城の花嫁』(松田定次監督)に主演。ユーモラスな演技で大成功を収めるなど、柔軟な役どころで、戦前の新興キネマ・大映映画時代の自身を凌ぐスターの地位を獲得。戦前からのスター俳優の多くが、戦後は脇にまわるケースが多い中で、特筆に値すると評される。6月に『仇討崇禅寺馬場』(マキノ雅弘監督)公開。同作は翌年京都市民賞でトップとなり、大は男優賞を受賞。

1958年(昭和33年)、『仇討崇禅寺馬場』(1957年・マキノ雅弘監督)での演技により京都映画祭主演男優賞を受賞。同年、シネマスコープ(東映スコープ)公開一周年記念として製作された『丹下左膳』シリーズでの丹下左膳役、翌1959年(昭和34年)、推理物の時代劇『右門捕物帖』シリーズ第1作『片目の狼』でのむっつり右門役を演じ、当たり役とし、快傑黒頭巾役と合わせて三つのヒットシリーズ…