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里見浩太朗



里見浩太朗, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=134293 / CC BY SA 3.0

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里見 浩太朗(さとみ こうたろう、1936年11月28日 – )は、日本の俳優・歌手。
旧芸名は、最初期は鏡 小五郎と富士川一夫、その後里見 浩太郎となり、1970年より現名。
本名は、佐野 邦俊(さの くにとし)。
所属は自ら社長を務める芸能事務所、株式会社 里見プロモーション。
芸歴が半世紀を越える時代劇俳優。
身長173cm。
東京市渋谷区道玄坂出身で、静岡県富士宮市育ち。
父・亀一は19歳で志願して近衛兵となり、帝国陸軍の麹町憲兵隊に転属したのち、秋葉原のパン屋で働いていた静岡県松野村出身の木伏エツと結婚。
里見が生後8か月のときに、盧溝橋事件により支那駐屯憲兵隊に臨時増加配属を命じられ、その年の9月に中国大陸山西省の小塞村(平型関の入り口)にて平型関の戦いで戦没しており、静岡県富士宮市にある母・エツの実家を頼った母子家庭で兄・要とともに育った。
その父の死に様は当時の新聞や軍内部の報告書で英雄として祀り上げられた。
当初は割腹自決と報じられたが、のちに同じ部隊にいた憲兵仲間から、負傷しながらも軍刀を抜き反撃しようとしたところを手榴弾を受けて亡くなったと報告があった。
「父の恩給だけでは生活が苦しかったため、母が縫い物の内職をして家計を支えてくれた。」という。
戦後、恩給が打ち切られてからは彼の母は古着の行商などで2人の息子を養っていた。
なお、父方の佐野家は山梨県南部町井出にあり、初代の佐野光次は戦国時代に武田信虎に仕えた武将。
代々武田家の家臣として仕え、祖父・勝三郎の代には農業・林業のほかに塩の販売なども手掛け、村で一二を争う財産家だった。
中学時代はテニス部所属、高校時代は音楽部に所属していた。
高校卒業間近に『NHKのど自慢』に出場する機会があり、伊藤久男の代表曲「山のけむり」を熱唱し合格した。
後年、里見はコンサートMC等で「この合格が芸能生活への原点である」と語っている。
静岡県立富士宮北高等学校卒業後上京。
築地の魚市場で仲卸を営んでいた叔父の会社に就職し、働きながら歌手を目指した。
レコードデビューが内定していたが、知り合いの女性が悪戯で里見を東映ニューフェイスに応募。
1956年、第3期東映ニューフェイスに合格し、東映へ入社。
同期には大川恵子・桜町弘子・大村文武らがいる。
時代劇が好きだったことと京都の居住条件が良かったことから自ら希望して東映京都撮影所(以下、東映京都)専属となる。
翌年、『天狗街道』で俳優デビュー。
3本目の『天狗街道』で、大当たりした東映の映画『里見八犬伝』が縁起がいいとプロデューサーから里見浩太郎(1970年に現名に改名)という芸名をつけてもらう。
1958年、4本目の『金獅子紋ゆくところ』初主演。
その主題歌『金獅子紋道中唄』で歌手デビュー。
映画では時代劇を中心に出演し、主演は子供向け作品が多かった。
初期は美空ひばりや中村錦之助主演映画での助演や『十三人の刺客』では片岡千恵蔵を補佐する役を演じた。
時代劇以外では高倉健主演の任侠映画『侠客列伝』(1968年)、千葉真一主演のオールスターキャスト作品『日本暗殺秘録』(1969年)や、村田英雄・北島三郎ら主演の歌謡映画などにも出演している。
1965年2月26日に京都地裁から拳銃密輸と所持により、懲役8か月(執行猶予3年)の判決を受けている(詳しくは後述「人物」)。
当時の岡田茂東映京都所長が、同撮影所の改革として時代劇映画をテレビに移し、映画は任侠映画を中心とするラインナップに変更する。
「時代劇に固執するものは一人もいらないんだ」などと強行に改革を進めたため、里見は時代劇映画を守ろうと中村錦之助 (萬屋錦之介)や東千代之介らと1965年5月9日、東映の俳優組合(東映俳優クラブ組合)を結成した。
しかし組合活動は上手くいかず、「任侠路線は自分には似合わない」と活動の場をテレビ時代劇に移す。
このときは岡田と反目に回ったが、「私は岡田茂さんに育てて頂いた」と述べている。
里見は、映画の頃とは打って変わって四番手ないし五番手の役が多くなり、1970年には芸名を「里見浩太郎」から「里見浩太朗」に改名。
時代劇のみならず、刑事ドラマやアクションドラマにも出演した。
1971年5月にナショナル劇場(現・パナソニック ドラマシアター)『水戸黄門』第3部(TBS、C.A.L)(放送は同年11月29日)で杉良…