1964年東京オリンピックのレガシー, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=4379228 / CC BY SA 3.0

#1964年東京オリンピック
1964年東京オリンピック 」 レガシー 開会式のあった10月10日は「体育の日」に制定され、国民の祝日となった 1964年東京オリンピックのレガシー(1964ねんとうきょうオリンピックのレガシー)とは、1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックにより、開催都市東京ならびに開催国日本にもたらした長期的な影響(オリンピック・レガシー)のこと。
短期的には、競技施設や日本国内の交通網の整備に多額の建設投資がなされ、競技を観戦する旅行需要やテレビ受像機購入などの消費も増えたため、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらした。
しかし誘発需要に基づく経済活動は結局、大会前の水準の均衡所得に戻りやすく、大会のレガシーとはならない。
競技施設を含むインフラストラクチャーそのものや、開催を経て獲得された知見や技能などが、大会後も長期にわたる恩恵として残っている。
国立代々木競技場第一体育館 大会開催にあたって、会場となる競技施設が数多く整備された。
大会に使用された施設は、オリンピック後も世界陸上競技選手権大会など大規模なイベントの会場となっている。
東京2020オリンピック・パラリンピックでも、1964年大会を継承するエリアを「ヘリテッジゾーン」として、日本武道館などいくつかの競技施設が再びオリンピックの会場に選ばれた。
オリンピックのために建設された国立代々木競技場第一・第二体育館は、文化的財としても戦後モダニズム建築の傑作とされるレガシーである。
2021年に戦後の建造物として5例目となる重要文化財に指定される見込み。
オリンピックの開会式があった10月10日は、1966年(昭和41年)以降「体育の日」として親しまれるようになった。
その後、体育の日は2000年(平成12年)より10月の第2月曜日、2021年(令和3年)より「スポーツの日」となった。
日本体育協会はオリンピック開催を控えた1962年(昭和37年)に「スポーツ少年団」を形成し、青少年がスポーツを実施する環境が整えられていった。
大会における日本選手たちの活躍は日本中を熱狂させたが、その感動や記憶はアスリートが残したレガシーである。
大会終盤のバレーボール女子決勝では「東洋の魔女」と呼ばれた日本チームが勝利して金メダルを獲得し、66.8%というテレビ視聴率をたたき出した。
それまで社会人のスポーツは見る物だったが、ママさんバレーに代表される参加するスポーツが盛んになり、公共のスポーツ施設が各地に造られていった(デモンストレーション効果)。
開催地の東京では、開催に向けて競技施設のみならず、帝都高速度交通営団・東京モノレール羽田空港線・首都高速道路・ホテルなど、様々なインフラストラクチャーが整備された。
都市間交通機関の中核として東京(首都圏)から名古屋(中京圏)を経由して、大阪(京阪神)に至る三大都市圏を結ぶ東海道新幹線も開会式9日前の10月1日に開業した。
これらのほとんどは、現在に至るまで改良やメンテナンスを重ねながら利用されている。
日本橋を覆う首都高速道路 特に首都高速道路の建設は急ピッチで進められ、東京国際空港(羽田空港)から国立競技場までつながり(その先の新宿まで開業)、途中で銀座・東京駅(呉服橋)・皇居周縁・国会議事堂・霞が関官庁街など、主要施設を経由する首都高速都心環状線ルートが大会前に完成した。
用地買収の期間を省くため、日本橋川上空などが利用され、日本橋も首都高速道路の高架の下に隠れることとなり、東京都心部の親水空間は減少した。
「ゴミ都市」と呼ばれていた東京に、都の主導でゴミ収集車が250台導入された。
この時に採用された積水化学製のポリバケツは全国的に普及した。
オリンピック組織委員会が、代々木選手村の整備期間中及び大会期間中の警備に際して、警察官の人員不足を考慮して、民間警備会社『日本警備保障』(現在のセコム)に警備の依頼を行った。
この民間警備会社による警備が無事に終了したことを機に、日本の社会に民間警備が認知されるようになっていく。
オリンピック放送を観戦する市民。
その後、街頭テレビは衰退していった。
東京オリンピックは、ベルリンオリンピックで初お目見えしたオリンピックのテレビ中継技術が格段に向上したことを印象づける大会となった。
衛星放送技術をはじめ、カラー写真・小型のコンパクトカメラの開発などもその特徴である。
東京オリンピックの衛星中継は、現地の映像をシンコム3号で日本か…