猪熊事件(いのくまじけん)は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。
主要人物としては猪熊家の当主左近衛少将・猪熊教利の名が良く上げられる。天下無双とたたえられるほどの美男子で、『源氏物語』の光源氏や平安時代の在原業平にもたとえられる反面、女癖が悪く、人妻や宮廷に仕える女官にも手を出し「公家衆乱行随一」とも称されていた。
事件を知って激怒した後陽成天皇は、乱交に関わった全員を死罪に処せと命じたが、従来の公家の法に死罪がなかった。
しかも当時、江戸幕府の力は公家の支配にも浸透しつつあり、捜査権も幕府が有していた。事件を聞いた大御所・徳川家康の命を受け、京都所司代の板倉勝重およびその三男重昌が調査に当たることとなった。
関係者全員死罪を主張しながら、周囲の説得により手ぬるい幕府の処分案に同意せざるを得なくなった後陽成天皇は、ままならぬ状況に絶望し、猪熊事件以降時折譲位を口にするようになる。
以前から天皇は、弟宮の八条宮智仁親王への譲位を望んでいたが、豊臣秀吉の猶子となったことがある親王への譲位は、豊臣家と敵対する幕府が難色を示した為叶わなかった。
また後陽成天皇の皇子・政仁親王(のちの後水尾天皇)へ徳川秀忠の娘和子(和姫)を入内させようとしていた家康の意向に沿わなかったため、譲位すらもままならない状況が続いた。結局、政仁親王への譲位は慶長16年(1611年)まで延ばされることになる。なお、和子の入内を巡るもう1つの著名な事件であるおよつ御寮人事件の四辻与津子は、猪熊教利の妹にあたる。
公家の乱脈ぶりを憂慮した幕府は、公家統制の重要性を悟り、慶長18年(1613年)の「公家衆法度」の制定を招き、さらに慶長20年(1615年)の「禁中並公家諸法度」制定につながっていくこととなる。
![[日本の歴史] 朝廷支配を目論む家康(狸親父)と猪熊事件 Ieyasu's intrigues and scandals of the court nobles.](https://www.yayafa.com/wp-content/uploads/2021/10/1634268964_maxresdefault.jpg)