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プロ野球界を揺るがせた阿部慎之助前監督の暴行騒動。辞任会見では長女の手紙が読み上げられ、ネット上では賛否が渦巻いた。
だが、多くの人が驚いたのは別の事実だった。
長女が最初に助けを求めた相手が、親でも先生でもなく、生成AI「ChatGPT」だったのである。
5月、阿部慎之助前監督をめぐる家庭内トラブルが報じられ、6月9日には暴行容疑で書類送検された。ところが議論は暴力そのものだけでは終わらなかった。なぜChatGPTに相談したのか?ChatGPTが家庭を壊したのではないか。SNSではそんな声が飛び交い、いつしか関心はChatGPTへ向かっていった。
だが、本当に気になるのはそこだろうか。
なぜ娘はChatGPTを選んだのか。なぜ最初の相談相手が親ではなかったのか。
その問いは阿部家だけの話ではない。スマホを持つすべての家庭に向けられている。
なぜ娘はChatGPTを開いたのか
夕食の準備をしているときだった。「ママ、聞いて」娘がそう言った。だが次の瞬間、視線は私ではなくスマホへ向かった。
そんな光景は、もう珍しくないのかもしれない。東京都教育庁の調査によると、小学生の生成AI利用はこの1年で大きく増えた。宿題の答え合わせ、作文の書き出し、自由研究のテーマ探し。中には友達とのトラブルや将来の悩みまで相談する子どももいる。
わからないことがあれば親に聞く。それが先生になり、Googleになり、今はChatGPTになった。情報の入口は静かに人からAIへ移りつつある。ただ、一つだけ決定的な違いがある。
ChatGPTは答えるだけではない。相づちを打ち、励まし、ときには慰める。まるで気のいい相談相手のように振る舞う。「そんなことも知らないの?」とは言わない。「今忙しいから後で」とも言わない。何度聞いても嫌な顔をしない。考えてみれば少し皮肉な話だ。親はコミュニケーションの大切さを教えるが、子どもたちは、人間より先にAIとの会話に安心感を覚え始めている。子どもが親を嫌いになったわけではない、先生を信用しなくなったわけでもない。ただ、ChatGPTのほうが先に話を聞いてくれる。それだけの話だ。
そして、その”それだけ”が案外重い。
「宿題終わったよ」の裏で起きていたこと
「宿題終わったよ」リビングから聞こえる声に安心する。ノートを見ると作文は完璧、誤字もない、起承転結も見事だ。先生が褒めそうな内容である。ところが、「どうしてそう書いたの?」と聞くと答えられない。考えたのは本人ではなくAIだからだ。もちろん生成AIは便利だ。俳句も作れ、作文も書ける。自由研究の構成もものの数秒で考えてくれる。だが学校が育てたいのは完成品ではない。悩んだ時間、考えた過程、言葉を探した経験だ。電卓で答えが出ることと、計算ができることは違う。生成AIで作文が完成することと、自分で文章を書けることも違う。
宿題とは本来、考える筋肉を鍛えるためのトレーニングだったはずだ。だが今、その筋肉を使わなくても結果だけは手に入る。筋トレをせずにプロテインだけ飲んでいるようなものかもしれない。
便利さの裏側で始まっているのは教育の進化なのか、それとも静かな退化なのか。誰もまだその答えを知らない。
親よりAIのほうが優しい時代
興味深いのは、子どもたちがAIを信じているわけではないことだ。SNSにはこんな声が並ぶ。
”AIは否定しない、AIは最後まで話を聞いてくれる、AIは説教しない。”確かにそうだ。
親はゲームをやめなさいと言う。先生はまず自分で考えなさいと言う。ChatGPTは「それは大変でしたね」と返す。
子どもが誰を選ぶかは、案外難しい問題ではない。かつて親たちは「知らない人について行ってはいけません」と教えた。令和の子どもたちは、名前も顔もないAIに人生相談をしている。なんとも奇妙で、少し笑えない話である。
だが考えてみれば、大人も同じだ。病院で聞きにくいことをAIに聞く。職場の悩みをAIに聞く。検索する前にAIを開く。私たちは気づかないうちに、AIを便利な道具から話を聞いてくれる存在へ変え始めている。
子どもが求めていたのは正解ではなかった。共感だったのかもしれない。
本当に問われているのは誰なのか
阿部慎之助前監督の件でも、多くの議論はChatGPTへ向かった。だが、この出来事の出発点はAIではない。
暴力である。もし今回の騒動によって、ChatGPTに相談すると家族が壊れる、児童相談所へ相談すると大ごとになるという印象だけが残ってしまえば、本当に助けを求めたい子どもたちはますます声を上げにくくなる。
問題は相談先ではない。なぜ相談しなければならなかったのかだ。もちろんAIは万能ではない。平然と間違える。もっともらしい嘘を答えることもある。だから最後に判断する力は人間が持たなければならない。だが、人間もAIから学べることがある。
否定せずに聞くこと。最後まで話を聞くこと。答えを急がず、気持ちを整理すること。案外簡単なようでできないのが人間ではないだろうか。
考えてみれば不思議な話だ。最新技術の象徴であるAIから、私たちは人間関係の基本を学ぼうとしている。
子どもはAIを信じているわけではない。AIの答えを絶対だと思っているわけでもない。もしかすると子どもたちは、大人以上に話を聞いてくれる相手を見つけただけなのかもしれない。現代の親は忙しく共働き世帯は増え続けている、先生たちにも余裕がない、そんな社会全体が時間に追われている。
子どもに「後でね」と言ったことはないだろうか。話しかけられたのにスマホを見たまま返事をしたことはないだろうか。最後まで聞かずに答えを急いだことはないだろうか。
それは決して特別なことではない。多くの大人が毎日のようにやっていることだ。だからこそ、この問題をAIのせいにして終わらせてはいけない。
AIが子どもを変えたのではない。AIが子どもを奪ったのでもない。AIはただ、そこにいただけだ。
昔の子どもは親に隠れて深夜ラジオを聞いた。今の子どもは親に隠れてChatGPTに相談する。
時代は変わった。だが、大人に言えない本音があることだけは変わらない。AIが選ばれた理由は、賢さだったのだろうか。もしかすると違う、話を聞いてほしかった。
それだけだ。