#落語 #イッテQ #出川#激レアさん「イッテQ・カプリ島騒動」「激レア終焉噺」
[音楽] [拍手] 一手中カプリト騒動はいはいご機げよ。 今日はね、ちょっとテレビの話を一席 申し上げます。いや、テレビってのは 面白いものでございますな。大真面目な ニュースよりこういうバカバかしいことの 方がよっぽどせを移す鏡になる。今回は ですね、一手という番組での出来事。ご 存知ない方もあるでしょうが、簡単に言う と芸人が外国でアホなことやって笑わせる 番組でございます。ほら、あれですよ。 世界平和のためにバカをさらすっていう 現代日本の奇妙な儀式みたいなもんで、 さて舞台はイタリアカプリとホッター ちゃんと出川哲郎さん2人旅でございます 。で、話の始まりはこうです。宿が 見つからない。予算も限られてる。島中 歩くは歩くは2人はエとえと。川さん なんかはもう歩くこと自体が仕事のように なってますからな。体当たり企画ってやつ です。まあ、その姿勢は立派です。 プロフェッショナルですよ、まさに。で、 やっとヤを見つけましてね、夕暮れに回線 パスタ。出川さん、いや、良かったねと。 ここが落ごに下げですよ。苦労の後の一時 観客はここでああ、世の中こういう瞬間が いいんだなと感じるわけです。しかし ほったさん無言で食べ始める。これが男子 師匠ならどう扱うか。こうですな。 おいおい、黙ってくうとは何事だとここで 人井話の種を入れる。出川さんはさりげ なく注意します。何も言わないでエビ食う んだったら俺こっちのエビ食うからね。 これ単なる注意ではなく店場を放棄するな という原人論です。笑いの機械は無言で 食べるほど逃げやすい。人生も同じです。 苦労していた場面を黙って消化するものは チャンスを逃す。男子師匠なら芸の道は常 に見場を逃さぬ心構えとかするでしょう。 ほったさんは慌てて割れに帰ります。 そしてカプレーゼを頼む。ここでしっかり 食レポリーミー 噛めば噛むほど牛乳と。これが落語の重要 な構造。まままと展開です。観客は笑うと 同時に芸人の再期を感じる。ここが人井話 と悲劇の交差点です。さて、ここから話は 2人の関係性に移ります。旅の後半 ウェディングフォト企画。ほったさんは ドレス。出川さんは新父の父親役で タキシード。ここで男子師匠ならこういう 一言を挟む。ああ、人生とは本来こういう 奇妙な偶然と組み合いでできている人は いつだって芝居をしている。そしてホ田 さんが手紙を読みます。内容は出川さんは 父のような存在だったという感謝の言葉。 これに出さんは無言で頷く。落語の世界で はこの無言こそ最高の間。三脚はそこに 涙出します。ここで一隻の気も男子師障風 に言えば笑いと涙は表利一体。今回の話は 単なるバラエティ番組ではありません。 これは日本社会の祝図です。人は忙しく宿 も見つからず疲弊している。しかしそんな 中でも笑いと感謝がある。そこに生きる 意味があるのです。 さらに皮肉を1つ。テレビは笑いを提供 するために作られている。しかし視聴者は その裏で生きる人間の真剣さに気づかない 。男子師匠ならこう閉めます。笑いとは 単なる笑いではない。人生を移す鏡であり 真実を移す芸の技だ。そして落語は観客に 高等部。あなたは今日無言でエビを食べて いないか?お後がよろしいようで。2幕目 激ア終焉話。いや、皆さんご存知かい? テレビ朝日の番組激レアさんを連れてきた 。8年続いたってんだ。8年だよ。8年。 この8年の間に何人の激レアさんが出たと 思う?583人だって。583人。俺らの 寄せでもそんなに出たら大変だよ。幕が 降りたってニュース聞いて終わりかと思っ たけど、よくよく考えたらテレビ会っての は常に終わりの連続だ。新しい番組が 始まるために古い番組は終わる。芸人も 同じだ。長く続けりゃいいってもんじゃ ない。話家だって話が古くなったら切ら れる。それが世の常ってもんだ。で、この 番組最後の会がまたゃれていたんだと研究 員若林正安は身に焼きつけたいと思います と言って8年の歴史を振り返る。いいね。 こういうの。人生もそうだ。振り返ると 何かが見える。若林って男芸人なのに妙に 真面目で人の人生に興味を持つ。だから この番組が長く続いた。テレビってのは 結局人が見たいのは自分じゃない誰かの 物語なんだ。政治家も芸人も結局そこを ついていく。8年続けた番組の最後に出て きたのは自作のゴム差し派を4年粘って 作ってる男。デビ夫婦人の家に遺相ろして た人。自作特撮ドラマをテレビで流した人 。これぞ激レアだ。考えてみりゃ世の中 そんな人ばかりだ。差し作って4年粘る 人間なんか普通は病院行けって話だ。でも 彼は違う自分の道を貫く。これが激レアの 親髄だ。デビ夫婦人の家に遺相ろする人。 これはもう笑える。デビ夫人といえば元気 で派手で常に世間の注目を浴びている。 そんな家に遺相ろするなんて誰が考える? 普通の人間なら恐れ多いって帰るだろう。 だけどその人はいわる。いわるってのは 恐れず生きるってことだ。男子師匠なら こう言う。いわれ、そして生きろと。 いわるという行為には必ず意思と覚悟が ある。これは社会に対する一種の講義だ。 そして最後自作特殺ドラマを流す男。トク トってのは子供の夢だ。大人になると夢は 壊れる。でもこの男は夢を諦めなかった。 その姿勢俺は好きだ。社会は夢を奪う。 それが資本主義だ。効率、成果利益夢は2 の次になる。だがこの人はテレビに夢を 持ち込んだ。これぞ真の激レアだ。で、 番組の使は激レア学によるグランド フィナーレ。演奏の横で8年を振り返る 映像が流れる。若林の言葉が深い。他人を 生きてない。自分を生きている人ばかり。 これは話しかとしても胸に刺さる。世間は 他人の人生を羨人の生き方を模法しようと する。でも本当は自分の人生を生きるべき なんだ。若林の言葉は話か男子の言葉と 響き合う。人間生きてるうちが花だ。他人 の花じゃなく自分の花を咲かせろと。だが 彼は最後にこういうもう戻ってくんなよと 。笑えるよな。愛情の裏返しだ。終わる からこそ言える言葉。続けば腐る。終われ ば尊い。男子師匠も同じことを言ってた。 終わりってのは生の集体性だと。そして 広中穴の言葉。一旦ストップですが、また 戻って来られるように頑張ります。これも また喋れている。終わりは終わりじゃない 。再会への予告だ。人生もそうだ。終わり は新しい始まりへの伏線。番組が終わって も激レアは続く。人生そのものが激レアな 話なのだ。さて、客席の皆さん、ここでお 知らせ。今日の話もう終わりに近づいて いる。人生も話も終わりがある。だから こそ面白い。8年続いた激レアさんの幕は 話し家としても大事な教えを残してくれた 。人は他人を生きるな。自分を生きろ。 そして時に を諦めるな。終わりは新たな始まりだ。 これが激レア終焉話の教えでございます。 [音楽] [拍手] [音楽] ສ
@落語 #イッテQ #出川#激レアさん「イッテQ・カプリ島騒動」「激レア終焉噺」
「イッテQ・カプリ島騒動」
はいはい、御機嫌よう。今日はね、ちょっとテレビの話を一席申し上げます。いや、テレビってのは面白いものでございますな。大真面目なニュースより、こういうバカバカしいことの方がよっぽど世相を映す鏡になる。今回はですね、『イッテQ』という番組での出来事。ご存じない方もあるでしょうが、簡単に言うと「芸人が外国でアホなことやって笑わせる番組」でございます。ほら、あれですよ、世界平和のためにバカを晒すっていう、現代日本の奇妙な儀式みたいなもんで。
さて、舞台はイタリア・カプリ島。堀田茜ちゃんと出川哲朗さん、二人旅でございます。で、話の始まりはこうです。宿が見つからない。予算も限られてる。島中歩くわ歩くわ、二人はへとへと。出川さんなんかは、もう歩くこと自体が仕事のようになってますからな、「体当たり企画」ってやつです。まあ、その姿勢は立派です。プロフェッショナルですよ、まさに。
で、やっと宿を見つけましてね、夕暮れに海鮮パスタ。出川さん、「いや〜良かったね!」と。ここが落語的に言うところの「サゲ」ですよ。「苦労の後のひととき」。観客はここで、「あぁ、世の中こういう瞬間がいいんだな」と感じるわけです。
しかし堀田さん、無言で食べ始める。これが談志師匠ならどう扱うか。こうですな——「おいおい、黙って食うとは何事だ!」と、ここで人情噺のタネを入れる。出川さんはさりげなく注意します。「何も言わないでエビ食うんだったら、俺こっちのエビ食うからね!」。これ、単なる注意ではなく、「見せ場を放棄するな」という芸人論です。笑いの機会は無言で食べるほど逃げやすい。人生も同じです。苦労して得た場面を黙って消化する者は、チャンスを逃す。談志師匠なら「芸の道は、常に見せ場を逃さぬ心構え」と喝破するでしょう。
堀田さんは慌てて我に返ります。そして「カプレーゼ」を頼む。ここでしっかり食レポ。「クリーミー! 噛めば噛むほど牛乳!」と。これが落語の重要な構造、間(ま)と展開です。観客は笑うと同時に、芸人の「再起」を感じる。ここが人情噺と喜劇の交差点です。
さて、ここから話は二人の関係性に移ります。旅の後半、ウェディングフォト企画。堀田さんはドレス、出川さんは新婦の父親役でタキシード。ここで談志師匠ならこういう一言を挟む。「ああ、人生とは本来、こういう奇妙な偶然と組合せでできている。人はいつだって芝居をしている」。そして堀田さんが手紙を読みます。内容は「出川さんは父のような存在だった」という感謝の言葉。これに出川さんは、無言で頷く。落語の世界ではこの無言こそ「最高の間」。観客はそこに涙します。
ここで一席の肝、談志師匠風に言えば「笑いと涙は表裏一体」。今回の話は、単なるバラエティ番組ではありません。これは日本社会の縮図です。人は忙しく、宿も見つからず、疲弊している。しかしそんな中でも「笑い」と「感謝」がある。そこに生きる意味があるのです。
さらに皮肉をひとつ。「テレビは笑いを提供するために作られている。しかし視聴者は、その裏で生きる人間の真剣さに気づかない」。談志師匠ならこう締めます。「笑いとは単なる笑いではない。人生を写す鏡であり、真実を映す芸の技だ」。そして落語は観客にこう問う——「あなたは今日、無言でエビを食べていないか?」。
おあとがよろしいようで
2幕目
「激レア終焉噺」
いやあ、皆さんご存知かい?テレビ朝日の番組『激レアさんを連れてきた。』、八年続いたってんだ。八年だよ、八年!この八年の間に何人の激レアさんが出たと思う?五百八十三人だって。五百八十三人!俺らの寄席でもそんなに出たら大変だよ。幕が下りたってニュース聞いて「終わりかぁ」と思ったけど、よくよく考えたらテレビ界ってのは常に“終わり”の連続だ。新しい番組が始まるために、古い番組は終わる。芸人も同じだ。長く続けりゃいいってもんじゃない。噺家だって、噺が古くなったら切られる。それが世の常ってもんだ。
で、この番組、最後の回がまた洒落ていたんだと。研究員・若林正恭が「目に焼き付けたいと思います」と言って、八年の歴史を振り返る。いいね、こういうの。人生もそうだ、振り返ると何かが見える。若林って男、芸人なのに妙に真面目で、人の人生に興味を持つ。だからこの番組が長く続いた。テレビってのは結局「人が見たいのは自分じゃない誰かの物語」なんだ。政治家も芸人も、結局そこを突いていく。
八年続けた番組の最後に出てきたのは「自作のゴム差し歯を四年粘って作ってる男」「デヴィ夫人の家に居候してた人」「自作特撮ドラマをテレビで流した人」。これぞ“激レア”だ。考えてみりゃ世の中、そんな人ばかりだ。差し歯作って四年粘る人間なんか、普通は「病院行け!」って話だ。でも彼は違う、自分の道を貫く。これが“激レア”の真髄だ。
デヴィ夫人の家に居候する人?これはもう笑える。デヴィ夫人といえば、元気で派手で、常に世間の注目を浴びている。そんな家に居候するなんて、誰が考える?普通の人間なら「恐れ多い」って帰るだろう。だけどその人は居座る。居座るってのは、恐れず生きるってことだ。談志師匠ならこう言う。「居座れ、そして生きろ」と。居座るという行為には、必ず意思と覚悟がある。これは社会に対する一種の抗議だ。
そして最後、自作特撮ドラマを流す男。特撮ってのは子供の夢だ。大人になると夢は壊れる。でもこの男は「夢を諦めなかった」。その姿勢、俺は好きだ。社会は夢を奪う。それが資本主義だ。効率、成果、利益…夢は二の次になる。だが、この人はテレビに夢を持ち込んだ。これぞ真の“激レア”だ。
で、番組の締めは「激レア楽団」によるグランドフィナーレ。演奏の横で八年を振り返る映像が流れる。若林の言葉が深い。「他人を生きてない。自分を生きている人ばかり」。これは噺家としても胸に刺さる。世間は他人の人生を羨み、他人の生き方を模倣しようとする。でも本当は、自分の人生を生きるべきなんだ。若林の言葉は、噺家談志の言葉と響き合う。「人間、生きてるうちが華だ。他人の花じゃなく、自分の花を咲かせろ」と。
だが彼は最後にこう言う。「もう戻ってくんなよ」と。笑えるよな。愛情の裏返しだ。終わるからこそ言える言葉。続けば腐る、終われば尊い。談志師匠も同じことを言ってた。「終わりってのは、生き様の集大成だ」と。
そして弘中アナの言葉。「一旦ストップですが、また戻ってこられるように頑張ります」。これもまた洒落ている。終わりは終わりじゃない、再開への予告だ。人生もそうだ、終わりは新しい始まりへの伏線。番組が終わっても、“激レア”は続く。人生そのものが、激レアな噺なのだ。
さて、客席の皆さん。ここでお知らせ。今日の噺も、もう終わりに近づいている。人生も、噺も、終わりがある。だからこそ面白い。八年続いた『激レアさん』の幕引きは、噺家としても大事な教えを残してくれた。
「人は他人を生きるな、自分を生きろ。そして時に居座れ。夢を諦めるな。終わりは新たな始まりだ」。
これが、激レア終焉噺の教えでございます。
