松平忠吉は徳川家康の四男として生まれました。
井伊直政の娘婿であり、関ヶ原の合戦では福島正則を出し抜いて先陣を切る役割を果たしました。
関ヶ原合戦での先陣を切る活躍が評価され、後の徳川家を左右する事にもつながりました。

11月18日に兄秀忠と共に参内して従四位下・侍従に任じられる。また論功行賞として尾張国および美濃国に52万石を与えられ、清州城に入る。

慶長9年(1604年)には、下間仲孝に能楽の秘伝を学んでいる。しかし病に侵され、同年5月に但馬へ湯治に向かう。慶長10年(1605年)4月には従三位左近衛中将にも任官するも、10月には腫物を患い、12月には危篤状態に陥るが投薬により蘇生する。

慶長11年(1606年)に下野守から薩摩守に遷任する。4月16日、上洛中の家康に対して側近の村越直吉を介して筍を送っており、家康の機嫌を損ねることのないよう進上の際には入念な配慮を頼み、奥を仕切る阿茶局にまでその心持ちを伝えている(『武州文書』)。これは家康に対して畏怖の念を抱くと同時に大事に思っていたことの表れである。

同年5月には知多郡で湯治を行ったが病は治らず、翌慶長12年(1607年)に江戸へ下向し、家康・秀忠と面会した数日後の3月5日に死去、享年28。法号は性高院殿憲瑩玄伯大居士。

Tadayoshi Matsudaira was born as the fourth son of Ieyasu Tokugawa.
She was the daughter-in-law of Ii Naomasa and played a leading role in the Battle of Sekigahara, outwitting Fukushima Masanori.

He was highly regarded for his leading role in the Battle of Sekigahara, which led to his influence on the Tokugawa family.

He went to Edo in 1607 and died on March 5, a few days after meeting Ieyasu and Hidetada, at the age of 28.