99年フェブラリーSを制したメイセイオペラとポーズも決まった菅原勲
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 東京競馬場の記者席。残り200メートルを切ってメイセイオペラが先頭に立つと、周囲の記者たちが騒然となった。「騒然」とは記事でもよく使う言葉だが、これが本当の“騒然”なのだと感じた。

 「おい、勝つぞ」「歴史が変わるぞ」。徹底した地方競馬びいきで鳴る、他社のある記者は何を言っているのか、よく分からない大声を上げていた。

 「メイセイオペラ、やりました!」。地方馬初の中央G1制覇が成った瞬間、鞍上の菅原勲は美しく右腕を上げた。記者席は誰もがよく分からない状態となっている中、騎手が一番冷静じゃないか、と思ったことをよく覚えている。

 地方所属馬にとって中央G1は高い壁だった。それは今もそうかもしれない。85年ロッキータイガーがジャパンCでシンボリルドルフの2着。だが、その後は低迷が続いた。

 95年にはトライアルを制した笠松のライデンリーダーが桜花賞で1番人気となったが4着敗退。97年にはG1へと生まれ変わったフェブラリーSに3頭が挑戦したが、16頭立ての14、15、16着と惨敗した。

 そんな“空気”がしぼみかけた頃に挑戦したのが岩手のメイセイオペラだった。

 実績は申し分ない。98年マーキュリーC(水沢)でJRAのパリスナポレオンを7馬身ちぎった。直前の東京大賞典(大井)もアブクマポーロの2着。大一番の前、報道陣は「メイセイオペラが歴史を塗り替える可能性十分」と原稿に書いた。

 ただ、どこかに疑念を抱いていた。トライアルであれだけ強かったライデンリーダーが桜花賞で失速したことが常に頭をよぎっていた。

 菅原勲は勝利を信じていた。「勝てば歴史が変わるぞと思っていた。不安より期待の方が断然、大きかった。力を出し切れれば当然、勝負になると確信していた」。勝つことを頭に描いていたからこその美しいガッツポーズだった。

 小野寺明子オーナー(名義は明正商事)は夫・良正氏の遺影を手にしていた。メイセイオペラの名付け親である前オーナーは96年7月、同馬がデビュー戦を勝って、ほどなく亡くなった。メイセイの冠名は夫妻の名前から「明」「正」を取ったもの。夫妻でつかんだ中央G1だった。

 明子オーナーは涙ながらに語った。「主人が乗り移ってくれたのでしょう。天国に“やったわよ”と報告します。この馬は大きな大きな形見です」

 胸が熱くなった。堂々たる砂のチャンピオン誕生。根拠のない疑念を抱いたことが恥ずかしくなる思いだった。

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