故・岡田繁幸氏が率いたクラブ法人「ラフィアンターフマンクラブ」の馬が、初めてレースに出走したのは1987年のことだった。奇しくもこの年、武豊騎手がデビューを果たしている。だが翌1988年、二人がそれぞれに関わった馬のあいだで、意外な“因縁”が生まれることになる。いったい何が起こったのか――。岡田氏の評伝『相馬眼が見た夢 岡田繁幸がサンデーサイレンスに刃向かった日々』(河村清明著)から抜粋してお届けする。    

【前編から読む】武豊と《マイネル軍団》岡田繁幸に生じた「意外な因縁」の裏で…総帥と「ある調教師」に起きた「軋轢」の原因 

スーパークリークとマイネルフリッセ

87年度の中央競馬・馬主ランキングの上位50位までにサラブレッドクラブ・ラフィアン(馬主登録された法人名)の名前はない。ところが、22勝を挙げた88年度はいきなり14位に登場する。繁幸の相馬眼と独自の育成法はいっそうの注目を集めていった。

88年4月、『東京スポーツ』が「中央競馬を変える男たち」と題する連載を開始した。繁幸は厩舎を開業したばかりの調教師・藤沢和雄と並んで紙面に登場した。

その記事を目にした『週刊少年マガジン』(講談社)の編集者が繁幸に競馬マンガの監修を依頼した。89年より連載を開始した『風のシルフィード』(本島幸久作)だ。

作中に、繁幸をモデルにしたオーナーブリーダー・岡恭一郎が登場する。岡はセリで3億円の馬を落札し、所有する牧場内に坂路や東京競馬場と同一のコースをつくるなど、ダービー制覇に異様なまでの執念を燃やした。

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その姿は繁幸彷彿とさせる。

マイネルフリッセとスーパークリークに「因縁が生じた」と先に書いた(前編)。舞台は1988年の菊花賞だ。

相馬和胤率いる柏台牧場が生産したスーパークリークはトライアル(当時)の京都新聞杯(GⅡ)へ出走したが、6着に敗れ、菊花賞の優先出走権を獲得できなかった。賞金順でも、フルゲート18頭に対して19番目だった。一方、きさらぎ賞を勝ったマイネルフリッセ(栗東・中村均厩舎)は出走権を保持していた。