
日本の7月の消費者物価は、総合とコアの双方が前年比3.1%の上昇となり、春先をピークとする減速傾向を維持しているが、事前の予想に比べて減速ペースは緩やかに止まっている。井上哲也氏のコラム。写真は2017年1月、都内で撮影(2025年 ロイター/Kim Kyung-Hoon)
[東京 25日] – 日本の7月の消費者物価は、総合とコアの双方が前年比3.1%の上昇となり、春先をピークとする減速傾向を維持しているが、事前の予想に比べて減速ペースは緩やかに止まっている。
<供給側の要因によるインフレ圧力と日銀の対応>
こうした高止まりには、携帯電話の通信料や火災・地震保険と自動車保険の引き上げも寄与しているが、食品の価格上昇が影響し続けている点は明らかだ。コメやその関連製品のように国内の事情によるものと、チョコレートやコーヒーのように海外情勢によるものの双方が含まれるが、ともに供給側の要因が大きく影響していることは言うまでもない。
供給側の要因によるインフレ圧力に対しては、一般的には、中央銀行は「先を見通す(look through、ルックスルー)」べきこと、つまり、急いで金融引き締めを行うべきでないとされている。
その第一の理由は、こうしたインフレ圧力は多くの場合に比較的短期間で収束するという経験に基づいている。自然災害等によって耕地や工場が毀損(きそん)しても、その復興が進めば供給力は回復し、インフレ圧力も低下していく。しかも、金融引き締めの効果が波及するには時間的なラグがあるので、供給力が回復しようとする局面でそれを抑制するという逆効果にも繋がりかねない。
第二の理由は、供給側の要因によるインフレを金融引き締めによって抑制しようとすれば、縮小した供給に見合う水準まで需要を抑制する必要があり、つまり、経済の縮小均衡をもたらすことである。この問題は、金融政策が供給側の要因に直接的な影響を与えることが難しいという一般的な事情に起因している。
日銀による金融政策の運営は、基本的には供給側の要因によるインフレ圧力に対して「ルックスルー」で対応する考え方に基づいている。7月の金融政策決定会合に際して公表した「展望レポート」でも、食品価格の上昇率の減速に伴って総合インフレ率は減速するが、その後の景気回復に伴う基調的インフレ率の上昇に伴って政策金利の緩やかな引上げを継続する方針を維持した。
<今回のインフレ圧力の特徴>
しかし、日本で今回生じている供給側要因によるインフレ圧力にはこれまでの経験とは異なる面があり、その点で一般的な識見としての「ルックスルー」が最適かどうかにはいくつか検討すべき点も残る。
最も大きな問題は、消費者物価上昇率が既に3年間にわたって高止まっていることだ。その主因は、国際商品価格の上昇や円相場の下落、国内での食品価格の値上げのように時間を追って異なる内容だったが、共通して供給側に要因があった。この点を経験した家計や企業が、今後もインフレ圧力が継続することを前提として行動することはむしろ自然である。
これは、家計や企業によるインフレ期待の上昇を意味しており、例えば、今年の新米の価格や来年の春闘での賃上げ率に対する想定を押し上げることを意味する。長らく低インフレの下にあった日本ではインフレ期待の上昇は待望の成果であるが、この間に家計や企業にとっての物価安定のベンチマークが喪失したこともあって、今や上方に不安定化するリスクも生まれている。日銀の「展望レポート」から「賃金と物価の好循環」という表現が消えたのも、こうした認識と関係している可能性がある。
もう一つの問題は、日銀の金融政策が供給側の要因にも影響を与える余地があることである。もちろん、日銀は国際商品価格の変動や国内での異常気象による食品生産の不振に影響を与えることはできない。それでも、日銀による政策スタンスは、少なくとも結果的には円相場に一定の影響を与えることができる。あるいは、金融環境を過度に緩和的にしないことが、企業による生産や物流の見直しを促し、供給制約の緩和に寄与することも考えられる。
<物価安定の意義の再検討>
日銀が、これらの問題を認識したうえでも「ルックスルー」が最適であると判断する最大の理由は、基調的インフレ率が、上昇途上にはあるが2%目標と整合的な水準まで高まっていないという判断にある。
ただし、基調的インフレ率は単一の指標で数値化して示すことが困難であるだけに、インフレ期待に関する多様な主体へのサーベイ結果や物価連動債の利回りが示唆する金融市場のインフレ期待、賃金上昇率、インフレ率の刈込み平均や最頻値などを総合して判断せざるを得ず、特に現在のような局面では、これらのいずれを重視するかで見方が分かれてしまう。
このような技術的な問題を超えて、現在の日本が経験しているインフレには、物価安定の本質的な意義に関わる問題も見えてくる。
物価安定が必要である理由は、かつてFRB(米連邦準備理事会)の議長であったグリーンスパン氏による物価安定の定義、つまり、「家計や企業が経済活動について判断する上で将来の物価変動を考慮しなくて良い状況」に沿って理解することができる。市場経済では、家計や企業はモノやサービスの相対価格をもとに消費や投資を決定し、その結果として労働や資本が効率的に配分され使用される。しかし、インフレ率自体が予想外に変動してしまうと、家計や企業はモノやサービスの価格変動が相対価格の変化によるのか、経済全体のインフレによるのかを識別できなくなり、消費や投資が過小ないし過大になることで労働や資本の効率的な配分が阻害される。
日本では、かつての低インフレの下でも、価格や賃金がおおむね一定に維持される下で、家計や企業にとって相対価格の認識が困難になり、同様な問題を生じたことが指摘されている。これに対し今回の局面では、少なくとも家計や企業は経済活動について判断する上で、将来の物価変動を考慮せざるを得ない状況にある。この結果、家計が消費に対して慎重になるとか、企業の一部がコスト高を理由に設備投資を先送りしている点は、相対価格の透明性が低下し、市場メカニズムに問題が生じている可能性を示唆する。
日本の場合、こうした問題の多くが長年にわたる低インフレからの構造変化に起因し、現在は家計や企業が判断や行動を調整しつつある局面であることも否定できない。家計や企業が次第に相応のインフレ率を新常態と認識する結果、長い目で見たインフレ期待が日銀によるインフレ目標の近傍に収斂(しゅうれん)し、それに基づいて経済活動を判断するという望ましい均衡に移行する可能性は存在する。一方で、人口動態等のために総需要の成長に短期的な改善が望めない日本で、労働や資本の効率的な配分や利用が阻害されるのであれば、それは長い目で見て重視すべき問題である。
日本経済が活性化していく上では、モノやサービスが相対価格に沿って取引されるという意味での市場メカニズムの維持と発揮が極めて重要だ。経済活動にとって重要な物価安定の意義を、家計や企業が低インフレ期とはいわば逆方向に見失わないようにすることも、今後の金融政策にとって重要な課題となってくる。
編集:宗えりか
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
*井上哲也氏は、野村総合研究所の金融イノベーション部シニアチーフリサーチャー。1985年東京大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。米イエール大学大学院留学(経済学修士)、福井俊彦副総裁(当時)秘書、植田和男審議委員(当時)スタッフなどを経て、2004年に金融市場局外国為替平衡操作担当総括、2006年に金融市場局参事役(国際金融為替市場)に就任。2008年に日銀を退職し、野村総合研究所に入社。金融イノベーション研究部・主席研究員を務め、2021年8月から現職。主な著書に「異次元緩和―黒田日銀の戦略を読み解く」(日本経済新聞出版社、2013年)など。
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