前作「I BELIEVE」に続いて、2作連続でミリオンヒットとなり、華原朋美最大のヒット曲となった。
TBC(東京ビューティセンター)「the レディ・エステティック」のCMソング。当時のプロデューサー・小室哲哉と共に出演し、“恋よりキレイになれるもの”のキャッチコピーにシンデレラストーリー仕立てのCMが話題を呼んだ。セレブ感を出すために「PRADA」「GUCCI」などのハイブランドでファッションも統一している。
当時の華原について、小室は「勝気というか、ロックンローラーというか、曲げたくないところは曲げたくないって部分はあったと思う」と振り返っていた[1]。
制作にあたって小室が描いたイメージは「風と共に去りぬ」。小室曰く、「数多くの小室作品の中でも5本の指に入る力作」であり、「1st、2ndは手探りでやっていたが、とてつもない速さで自分をどう表現するかという力を身に着け、難しい楽曲を歌うことができるようになった。」と当時語っている。また、華原の要望も受けて小室は歌詞を書き換えており「曲自体はデビュー前にある程度出来ていたが、歌詞を完成させるのに凄く時間がかかった」とも語っている。
当初、サビフレーズの歌詞「いちごの様に」の果物の部分は“りんご”であったが、小室が作詞をしているときに一緒にいた華原は小室がシャンパンのグラスの中にイチゴを入れる様子を見て、「I’m Proud」の歌詞に「いちご」という言葉を入れるのはどうかと提案して“いちご”に変更された[2]。
冒頭のサビを終えた直後の間奏からAメロにかけて、J.S.バッハ以前の時代に使われていた教会旋法の中からドリア旋法を用いて書かれており、敢えて現代の調性に合わないように見せかけたのち、Bメロで日本のヨナ抜き音階を取り込んでいるなど、高校までの音楽の授業で習うような理論の範疇を超えて作曲されており、小室の手腕の高さが伺える。
レコーディングや、ジャケット・PVの撮影はロサンゼルスで行われた。ジャケットはハンティントンビーチで撮影された。ジャケット撮影時、高熱でダウン寸前だったが、根気で乗り切ったと本人が語った。PVは、倉庫街ビル(1100 Wilshire)屋上(ヘリコプターを使っての大掛かりなシーン)とスタジオで撮影され、小室も共に出演した。PVとメイキングが収められたシングル・ビデオは、同年3月27日に発売された。
記録的なビッグ・セールスとなった1枚目のアルバム『LOVE BRACE』では、シングルの [Radio Edit] ではカットされたラストのサビをさらに盛り上げる歌詞とメロディーが加わった、全編の [full version] で収録されている。
発売週に出演した『ミュージックステーション』では、サビ歌詞を間違えて“ラララ~♪”で歌いきり、ハプニングシーンとなった。また、この曲での2回目出演時には、吉野家の牛丼が大好きで“並・玉・つゆだく”で食べていると公言したことから、吉野家に女性客が急増し、“つゆだく”という用語も広く一般に浸透した。
この曲で、1996年の『第47回NHK紅白歌合戦』に初出場し、小室がピアノ演奏として参加した。
デビュー10周年を迎えた2005年には、「I BELIEVE 2004」のリメイクに続き、シングル「涙の続き」のカップリングに「I’m proud 2005」を収録した。さらに2013年には、長期活動休止からの復帰第1弾シングルとなった「夢やぶれて -I DREAMED A DREAM-」のカップリングに「I’m proud -2013 Orchestra Ver.-」を収録した。
導入部のサビの後の四つ打ちキック音とその後のベース音は、TMNのアルバム『CLASSIX』の「Human System -Cafe De Paris Mix-」と同じものである。
同年のオリコン年間シングルチャートでは、安室奈美恵の「Don’t wanna cry」や「Chase the Chance」を抑えて、女性ソロ部門では最大のヒット曲となった。
華原は「『keep yourself alive』『I BELIEVE』では『強さ』を歌っていたけど、今度は『強さの裏にある優しさ』を歌った。『他人に優しくなれる力強さを持ちたい』と思っている方に歌ってほしい」と語っている[3]。
本作が収録された「LOVE BRACE」は、小室哲哉が自身のアルバムプロデュース作品の中で一番気に入っている作品。最初から最後の一音まで徹底的に拘った。当時、楽曲以外のネタで騒がれることが多くなってた風潮に対し、絶対に負けたくなく音楽で答えたかったという思いで製作された。[4]
小室が、楽曲製作において、詞をきちんと意識したのは華原朋美が初めてであった。それまでは洋楽的エッセンスを取り入れることを重視しており、TRFや篠原涼子の楽曲から少しずつ詞も意識し初めていたが1~2フレーズ残れば良いという程度だった。最初から最後まで、リスナーにきちんと伝わる詞を書くようになったのは華原朋美から。[5]また、当時、小室が華原を通じて表現していたのは「元々、普通の女の子なのに、意図せず規律の外に出てしまった女の子」「自分に自信が持てず『どうせ自分なんて』とため息をつく、そんな若者の切なさ、やりきれなさを表現したかった」としている[6]
古市憲寿がパーソナリティを務めるFMにゲスト出演をした際には、「一度飛行機の中で書いた歌詞の初稿を暖炉で燃やされた」と明かしている[7]。
歌詞は同年に、ロサンゼルスへ向かう飛行機内で完成させた。詞の内容をロスのホテルで華原に見せたが、「どこが気になったのかいまだにわからないんだけど、ロスのホテルの暖炉に丸めて捨てられたんだよね。気に入らないとまでは言わなかったけど、なんかイヤだったみたい」と告白[1]。小室は「ありがとうって言ってもらうつもりもなかったけど、『どうかな?』っていう感じ」と回想。その歌詞は「覚えてないんだよ。一行一行でポンポン書いていったので」と、自分でも内容を思い出せないという[1]。